幕絵と山梨
幕絵とは?
What is MAKUE ?
江戸時代、甲府の中心部で開催されていた「甲府道祖神祭り」。この祭りでは、甲州の繁栄を象徴するかのようにメインストリートにあるの商家の軒先に、競うように「幕絵」が飾られて祭りを彩っていました。当時の甲州町人たちは江戸から名だたる絵師を招聘して、約10メートルにも及ぶ長大な麻布に豪華な作品を描かせていました。浮世絵師「歌川広重」や「月岡芳年」といったスター絵師たちによる、巨大絵巻物さながらの光景が町を彩ったのです。残念ながら、明治初期に諸祭礼の縮小・消滅が進められたことから、甲府の町人に親しまれていた甲府道祖神祭りは明治5年をもって廃絶してしまいました。
幕絵と山梨
Why MAKUE in Yamanashi ?
甲府城下町と道祖神祭礼
甲府は戦国期に甲斐守護武田氏の本拠である城下町として発展し、武田氏の滅亡後も甲府は甲斐統治の政治的拠点として機能していました。近世初頭には戦国期の武田城下町南端にあたる一条小山に甲府城が築城され、甲府城下町は南方に遷移し城下町が再形成された歴史があります。また、近世の甲府城下町は甲州街道が東西に通過する他にも、諸街道が結集するために甲府柳町宿が成立し、年貢米も集積される経済都市としても機能し、江戸中後期には亀屋座などの芝居小屋も出現して賑わいの町人文化が興隆していました。
そして、甲府城下を中心とする国中地方は当初甲府藩が設置され大名支配が行われていましたが、享保9年(1724年)には甲斐一国が幕府直轄領となり、甲府城下には甲府勤番が設置されて町方支配が行われ、甲府町政は甲府町年寄によって担われていました。
道祖神祭礼は農作物の豊穣を祈念する民間信仰で、甲府町方のみならず甲斐国一円で行われ、今日でも小正月行事として様々なツクリモノが作られる民俗行事が行われています。道祖神祭礼は近世期には全県的に記録が残っていますし、民俗的意義のみならず村や町の共同体としての娯楽であった点や、景気浮揚効果も意図して実行されていました。
甲府道祖神祭礼の歴史的背景
近世後期の甲斐国では、農村地における諸産業の発達により甲府町方では経済的衰退が起こり、また城下はたびたび自然災害や社会不穏の影響を受けていました。こうした経済・社会的状況と『永代帳』における支出の年次的増加は相関していることを鑑みると、甲府道祖神祭礼が存在した歴史的背景には経済・社会的苦境に陥った際の都市において、宗教的な道祖神への信仰が興隆したもの推測できます。
甲府道祖神祭礼で生まれた『幕絵』
陣幕は本来武家の作法であるが、近世には一般社会においても芝居小屋などで悪霊・邪気を防ぐ効果を期待した陣幕の作法が浸透しており、安藤広重による『甲州日記』における幕絵製作に関する記事には陣幕作法とみなせる記述があることも指摘されています。また、この広重の『名所江戸百景』は嘉永7年(1855年)の安政の大地震において被害を受けた江戸の復興を祈念した世直しの意図も指摘されており、江戸名所が描写された『甲府道祖神幕絵』にも甲府城下の都市復興を祈念した意図があるとされています。
また、甲府道祖神祭礼の運営においては若衆・下層民から家持町人へ主導権が変化を見て取れますが、一方で祭礼の執行は都市下層民への雇用確保や富の還流をもたらすため、城下における景気浮揚や社会不穏の解消という機能ももっていた点が指摘されており、宗教的意味合いのみならず現実的な景気浮揚の効果も及ぼしていたと考えられています。
【参考文献一覧】
『甲府道祖神祭り-江戸時代の甲府城下活性化プロジェクト-』山梨県立博物館、2011年
『山梨県立博物館調査・研究報告3 歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』山梨県立博物館2008年
井澤英理子「「甲州日記」の研究史と原形について」井澤(2008・①)
髙橋修「甲州日記」の年代比定について」髙橋(2008・①)
井澤英理子「広重のスケッチとその活用」井澤(2008・②)
髙橋修「甲府道祖神祭礼と歌川広重の関わり」髙橋(2008・②)
井澤英理子「甲府道祖神祭礼幕絵の制作」井澤(2008・③)
石川博「町の祭礼と年中行事」『山梨県史 通史編4 近世2』
髙橋修「甲府道祖神祭礼永代帳との対話」『山梨県立博物館研究紀要 第3集』山梨県立博物館、2009
髙橋修「地域博物館」『ミュージアム・マネジメント学辞典』日本ミュージアム・マネジメント学会辞典編集委員会、2015年
松田美沙子「新津家伝来肖像画について-月岡芳年作品を中心に-」『山梨県立博物館研究紀要 第8集』山梨県立博物館、2015年
【協力】山梨県立博物館